【真作】207-尾竹竹坡 安達陶仙 掛軸 日本画 浮世絵師 原画


尾竹竹坡 安達陶仙 掛軸 日本画 浮世絵師 原画
◆ 作 者 ◆
尾竹竹坡
◆ 画 風 ◆
日本画
◆ モチーフ ◆
人物
◆ 絵画寸法(cm) ◆
42-100 cm
◆ 額外サイズ(cm) ◆
50-175 cm
◆ 作者略歴 ◆
尾竹竹坡について
明治11年(1878年)1月12日、現在の新潟市に生まれる。
本名は染吉。父は尾竹倉松。4歳で南宗派の笹田雲石に学び、竹坡の雅号を受ける。竹翁とも号す。
5歳の時には襖絵などを描き、6歳の頃には花鳥画を器用な筆捌で描き上げ、神童と言われたという。
また10歳の頃から絵をもって家計を助けたともいわれる。
明治24年(1891年)富山に移り、兄・国一(越堂)とともに生活のために売薬版画の下絵や新聞『富山日報』挿絵を描く。主に役者絵や福絵を手がける。
弟・国観が『小国民』の全国児童画の一等賞を得たことを縁に、富山から同誌に挿絵を送るようになる。
明治29年(1896年)2月に国観とともに上京して川端玉章に入門。日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会等で受賞を重ね、人気が高まる。
当時、横山大観ら東京美術学校出身作家の作品の売価が100円から200円だった時代に500円の高値で売れ、これに気を良くした二人は腕力に任せて暴走する傾向も見られた。また小堀鞆音、梶田半古に師事して大和絵を学んだともいわれる。
明治37年(1904年)に国画会で戦争展覧会を開いて盛況。
明治38年(1905年)には若手作家を糾合して大同画会を発足させ、国画玉成会へ合流する。
玉成会の一員として文展に出品することになり、今村紫紅、安田靫彦らと五浦研究所に逗留し、明治40年(1907年)の第1回文展入選作「羅羅」を描く。
ところが、明治41年(1908年)10月岡倉覚三(天心)と玉成会の審査員を選ぶ酒席で岡倉が、当時の人気と業績からすれば後輩に当たる靫彦ら数名の青年を独断で指名しようとしたため、衝突する。憤慨した竹坡は国画玉成会を弟の国観とともに退会し、以後岡倉一派とは袂を分かつことになる。
岡倉は尾竹兄弟の才能を認めていたが、彼の考える日本美術の特色、壮麗で優美さを求める高い志を持とうとしない兄弟に不満を持ったとされている。その結果、日本画界からは締め出された格好となった。
明治42年(1909年)の第3回文展で『茸狩』(現在行方不明)が三等賞、明治43年(1910年)の『おとづれ』や明治44年(1911年)の『水』が二等賞(最高賞)と注目を浴びるが、台頭してきた学校派との根強い対立や二人の単純で荒削りな性格が災いして、大正2年(1913年)の第7回文展には兄弟そろって落選、同年に兄の越堂、弟の国観と合同展覧会を開く。
この文展落選の原因が美術行政制度にあるとして、大正4年(1915年)には衆議院議員に立候補するも落選。
このとき生じた多額の負債が、後半生の没落の契機となる。借金返済のため、『波に旭日』ばかりを流れ作業のように描く濫作で自ら画名を落としていく。
一方、一連の出来事で竹坡は自らの画業を見つめ直し、新たな画業を模索し、それまで描かなかった実験的な作品を巽画会などで発表する。
大正末には未来派に接近、前衛グループ八火会を結成するなど再起を試みた。
特にその第1回展では出品作79点中、59点が竹坡作品であり、意気込みのほどが窺える。しかし、八火会も第3回展で終わり、後の帝展では無鑑査になるが振るわず、晩年には目黒雅叙園の装飾を多く手掛けた。
昭和11年(1936年)6月2日気管支喘息により歿(58歳)。
◆ 注意事項 ◆
経年の汚れ、シミがございます。
商品が真作でないと判明された場合、落札金額 + 送料 + 鑑定代金等をご返金いたします。
贋作請求をされる場合、その証明として下記の書類等が必要となります。
①贋作と証明された落札商品
②所定鑑定機関または公式鑑定人が発行した書類(原本必須、コピー不可)
③公的鑑定機関発行の鑑定(証明)書
④作家自身の署名捺印のある書面 等
画像をよくご覧になりご自身の判断にてご入札下さい。
◆ 送 料 ◆
北海道:2040円
東 北:1440円
関 東:1310円
信 越:1310円
中 部:1200円
北 陸:1200円
関 西:1200円
兵庫県:1130円
中 国:1200円
四 国:1200円
九 州:1310円
沖 縄:1810円
同時出品中の商品はこちらからご覧ください。
