【 奥原 晴湖(おくはら せいこ)1837年 - 1913年 茨城県出身 】
古河藩士で南画家の枚田水石に学び,中国の先人や狩野派, 渡辺崋山などの作品を数多く模写する。その後,関宿藩士奥原家の養女と なり,本格的に絵を学ぶため江戸に出て,晴湖と号した。明治のはじめか ら20年代までの間に晴湖の名声はあがり,多くの弟子を指導。門人の中 には,東京美術学校の創設や明治美術界を牽引した岡倉天心もいた。画中 に自作の漢詩句を晴湖独自の書体で書き込んだ,詩書画一致が作品の特徴 である。一生を独身で通し,豪放な絵を描いた晴湖はまさに女傑という名 にふさわしい。絵によって,明治初期における女性の社会進出に大きな一 歩をしるした人物である。
【 滝和亭(たきかてい)1830年 - 1901年 東京都出身 】
本姓は田中改め滝宮。名は謙。字は子直。16歳の頃、大岡雲峰に明清画を習う。1850年、長崎に遊学し半年ほど滞在。その間、木下逸雲、鉄翁らと交友。惲南田、周笠等の画を模写しその没骨法に大いに感化を受ける。帰路、京都に立寄り、貫名海屋、山本梅逸等とも交わる。江戸に戻り渡辺華山、椿椿山の画風を慕い、椿山に教えを乞う。1873年、ウィーン万国博覧会に花鳥画2点を出品。1877年、第1回内国勧業博覧会に《松樹牡丹》を出品し花紋賞牌受賞。1893年には帝室技芸員に推挙される。以後、国内展で審査員を務め、受賞多数。没骨彩色による優麗な花鳥画で名を馳せた。
【 大沼枕山(おおぬまちんざん)1818年 - 1891年 東京都出身 】
江戸下谷に下級の幕臣で漢 詩人でもあった大沼竹渓(次右衛門)の子として生まれた 。幕末期から 明治期にかけて書画会などで活躍し、『房山集』、『枕山詩鈔』、『江戸名勝詩』などの詩集を発刊 した。
明治2 年に枕山が書いた漢詩『東京詞』により、維新政府の糾問を受けたことはよく知られて いる。明治維新後、「終日手盃。繙詩集。尚友古人。看花玩月外。不復出門。(中略)猶 能結髻。一見知為旧幕府逸民也 9 」と名利を求めず在野の漢詩人として生きたとされる。