塗装済み完成品_注意!この完成品は作者の妄想です。ヒカリ工房製_妄想_飛燕シリーズ_06)ハセガワ_1/48_Jt12改造_キ61_飛燕Ⅲ型偵_送料込み


塗装済み完成品_注意!この完成品は作者の妄想です。ヒカリ工房製_妄想_飛燕シリーズ_06)ハセガワ_1/48_Jt12改造_大日本帝国陸軍_三式戦闘機_キ61_飛燕Ⅲ型偵察装備_飛行第28戦隊第1中隊所属機_昭和19年秋_ニューヘブリディーズ諸島_エスピリトゥサント飛行場_送料込み

現実の機体をずっと製作してきましたが、残りの人生も短いので、子供の頃からの妄想を実体化するため、徹底的な妄想、但し、物理法則を無視しない「大日本帝国の技術力がイタリアと同レベルで、ダイムラーベンツ系エンジンの生産・改良が十分可能だった場合の三式戦闘機_飛燕」を製作してみました。

コトブキ飛行隊と同様のノリで、但し、現実化する可能性があった(泣)私の妄想を理解して頂ける方には、楽しんでもらえると信じて出品してみます。

私には隼以外の(泣)大日本帝国陸軍戦闘機たちには「設計は良かったのに・・・」という気持ちがありまして、三式戦_飛燕はエンジンさえよければ、あのノ-スアメリカンP-51マスタングにも負けない優秀な戦闘機として活躍できたのに・・・と考えています。(泣)

画像を見て気に入っていただければご落札ください。

■ 実機について ■

1937年(昭和12年)12月に制式採用された中島製の全金属製低翼単葉機九七式戦闘機(キ27)は、主脚に固定脚を採用した保守的な設計かつ格闘戦向けの戦闘機で、当時としては速度・上昇力・旋回性に優れた優秀機でした。

しかし、当時の欧州では引込脚のBf 109(ドイツ)とスピットファイア(イギリス)が出現しており、設計面で将来性が乏しい九七戦自体に限界を感じていた陸軍は新型戦闘機の開発を模索するようになりました。

九七戦の後継機としてはキ-43 隼が試作されましたが、一方、欧州の戦闘機開発も考慮した陸軍は、重武装かつ対戦闘機戦にも対大型機戦にも対応できる速度重視の「重単座戦闘機」の開発も1940年(昭和15年)2月、川崎に内示しました。

「重単座戦闘機」のための大馬力エンジンとしては適当なものがなく、独自の液冷エンジンを持たない日本がBf 109(ドイツ)の液冷エンジン ダイムラー・ベンツ社製DB 601を国内でライセンス生産したハ-40を装備する完全な「重単座戦闘機」としてのキ-60と、どちらかと言えば「軽単座戦闘機」思想のキ-61が試作されました。 キ-60は1941年(昭和16年)3月、キ-61は1941年(昭和16年)12月に初飛行し、両者の比較の結果、キ-61のほうが総合的に優秀と判断され、1942年(昭和17年)10月、三式戦闘機 飛燕として正式採用されました。

その設計は極めて優秀で、同じエンジンを装備するBf 109(ドイツ)より最大速度が20Km/hも速く、操縦・安定性能、旋回、急降下、航続性能、量産性、すべてが高度なレベルにあると判定されました。

武装は、当初はホ103 12.7mm機関砲4門が予定されましたが、主翼の12.7mm機関砲を隼Ⅰ型の99式1号3型20mm機関砲に変更し、12.7mm×2、20mm×2という1943年(昭和18年)中では最強の武装を持つことができました。

狂喜した陸軍は川崎に対して大量生産を指示し、量産は1942年(昭和17年)8月から始められ、飛燕は、日本機には珍しい液冷エンジン装備機でしたので、部隊への配備は、空冷エンジン機に慣れた既存の飛行戦隊の改編ではなく、新規編成が主に行われ、1943年(昭和18年)2月には、飛燕を装備する最初の実戦部隊、飛行第68戦隊と78戦隊がニューギニア島ウエワクへ進出しました。

進出初期には、高温多湿の環境と、エンジン整備環境の不足により、機体稼働率が低く苦戦しましたが、1943年(昭和18年)夏頃までには改善され、強力な武装と共にP-38、P-39、P-40等の初期の米陸軍戦闘機に対して有利な戦いができ、制空・防空・護衛・掃討等、あらゆる任務に使用され、前線で八面六臂の活躍をしました。

エンジンがDB601系からDB605系に改良されると共に、諸性能の向上、武装の強化が次々となされ、以後、休戦まで、大日本帝国陸軍の主力戦闘機の一つとして、13,148機が生産されました。

エンジンをⅡ型のDB601E系アツタ32型から、DB605AM系アツタ43型に換装、トルクの影響を吸収するため垂直尾翼を大型化し、過給機空気流入量を増大させるため空気取り入れ口も大型化させたのがⅢ型です。

離昇出力は、Ⅱ型の1,400馬力から、1,600馬力に向上し、最大速度は水メタノールシステムもあって、6,000mで630Km/hから660Km/hに、上昇性能、高高度性能もさらに向上しました。

量産は1944年(昭和19年)2月から始められ、4,210機が生産されました。

作例は、垂直尾翼、過給機空気取り入れ口を大型化し、胴体後部に一号自動航空写真機を装備し、武装を12.7mm×2、20mm×2に軽減した、戦術戦闘偵察機とされた機体でⅢ型偵察装備と呼ばれました。

■ 製作方法 ■

①Ⅰ型丁の機体を使用し、垂直尾翼を5式戦のものと交換し、過給機空気取り入れ口を大型化して後方に移動してアツタ43型エンジンのⅢ型を再現しました。

②機体接着後、クレオスMr.カラーNo.8(シルバー)で下塗り塗装した後、接着跡、筋彫りの修正を行い、全体をクレオスMr.カラーNo.90(シャインシルバー)で吹き付け、筆塗りで修正をし、墨汁でスミ入れウォッシングをしました。

③操縦席は筆塗り塗装し、計器盤はドライブラシで再現し、シートベルトを紙製で追加工作しています。

④主翼上面の脚指示棒と主脚のブレーキパイプを追加しています。

⑤国籍マーク、飛行戦隊マーク・主翼・胴体帯はスプレー塗装しました。

⑥機体番号等はデカールを使用しました。

⑦0.12mmエナメル線でアンテナ線を再現し、統制型300リットル燃料タンクを主翼下面に装備しました。

⑧主翼の2門の99式2号4型20mm機関砲の長銃身と主翼上下面の覆い、胴体後部のカメラ窓を再現しました。

⑨マーキングは、1943年(昭和19年)10月、ニューヘブリディーズ諸島_エスピリトゥサント飛行場に進出した強行偵察専門の飛行第28戦隊第1中隊所属機としました。

⑩費用の関係からエッチングパーツ等、高価なものは一切使用していません。

発送サイズ たて×よこ×高さ 80サイズ 

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