★角川文庫 『六の宮の姫君』 芥川龍之介
★1966年刊 定価90円(絶版文庫本) 186㌻
★六の宮の姫君の父は、古い宮腹みやばらの生れだつた。が、時勢にも遅れ勝ちな、昔気質むかしかたぎの人だつたから、官も兵部大輔ひやうぶのたいふより昇らなかつた。姫君はさう云ふ父母ちちははと一しよに、六の宮のほとりにある、木高こだかい屋形やかたに住まつてゐた。六の宮の姫君と云ふのは、その土地の名前に拠よつたのだつた。
父母は姫君を寵愛ちようあいした。しかしやはり昔風に、進んでは誰にもめあはせなかつた。誰か云ひ寄る人があればと、心待ちに待つばかりだつた。姫君も父母の教へ通り、つつましい朝夕を送つてゐた。それは悲しみも知らないと同時に、喜びも知らない生涯だつた。が、世間見ずの姫君は、格別不満も感じなかつた。「父母さへ達者でゐてくれれば好い。」――姫君はさう思つてゐた。
古い池に枝垂しだれた桜は、年毎に乏しい花を開いた。その内に姫君も何時いつの間にか、大人寂おとなさびた美しさを具へ出した。が、頼みに思つた父は、年頃酒を過ごした為に、突然故人になつてしまつた。のみならず母も半年ほどの内に、返らない歎きを重ねた揚句、とうとう父の跡を追つて行つた。姫君は悲しいと云ふよりも、途方に暮れずにはゐられなかつた。実際ふところ子の姫君にはたつた一人の乳母うばの外に、たよるものは何もないのだつた。
乳母はけなげにも姫君の為に、骨身を惜まず働き続けた。が、家に持ち伝へた螺鈿らでんの手筥てばこや白がねの香炉は、何時か一つづつ失はれて行つた。と同時に召使ひの男女も、誰からか暇をとり始めた。姫君にも暮らしの辛つらい事は、だんだんはつきりわかるやうになつた。しかしそれをどうする事も、姫君の力には及ばなかつた。姫君は寂しい屋形の対たいに、やはり昔と少しも変らず、琴を引いたり歌を詠よんだり、単調な遊びを繰返してゐた。
すると或秋の夕ぐれ、乳母は姫君の前へ出ると、考へ考へこんな事を云つた。
「甥をひの法師の頼みますには、丹波たんばの前司ぜんじなにがしの殿が、あなた様に会はせて頂きたいとか申して居るさうでございます。前司はかたちも美しい上、心ばへも善いさうでございますし、前司の父も受領ずりやうとは申せ、近い上達部かんだちめの子でもございますから、お会ひになつては如何いかがでございませう? かやうに心細い暮しをなさいますよりも、少しは益ましかと存じますが。……」
姫君は忍び音ねに泣き初めた。その男に肌身を任せるのは、不如意な暮しを扶たすける為に、体を売るのも同様だつた。勿論それも世の中には多いと云ふ事は承知してゐた。が、現在さうなつて見ると、悲しさは又格別だつた。姫君は乳母と向き合つた儘、葛くずの葉を吹き返す風の中に、何時までも袖を顔にしてゐた。……
★表題作のほか、次の8編収録
「運」
「道祖問答」
「袈裟と盛遠」
「龍」
「素戔嗚尊」
「老いたる素戔嗚尊」
「往生絵巻」
「俊寛」
解説 吉田精一
★同梱可能の際は、同梱発送いたしております。全作品、旧仮名遣いです。経年劣化のため紙質に黄化があります。読書に支障はありませんが、あらかじめご承知おきください。