狩野元信 【模写】 足利将軍家御用絵師 紙本水墨花鳥之 室町時代 年鑑参考価格8,000万円
狩野元信 ( 足利将軍家御用絵師 ) 紙本水墨花鳥之 室町時代
●商品説明
狩野派始祖の父「狩野正信」に師事して弱冠10歳には足利家の近待となるほどの画才を持ち、足利家の御用絵師として活躍、また土佐派の大和絵技法を作品に取り入れて既存古画の主流であった唐様式の水墨画技法とはほかに彩色の優雅な作風を確立し以降の狩野派絵画の道筋を築いたとされる【狩野元信】(1476-1559)の作。数多くの名作を残す偉大な絵師です。紙本水墨花鳥之図。
水墨画技法による唐様式の古画は丁寧に描き込まれた圧巻の作行きを誇っています。中国古画を良く学び、風雅に富んだ画風が印象的です。
真筆との説明を受け購入しました。狩野元信の印が押されているものの、極など他に真作を示すものが付属していませんので、【摸写】として出品します。
本紙は、膨大な時間の経過を示す状態です。表装は、名品に相応しく、豪華です。とても古い時代箱付き。
●状態・寸法
【状態】
紙本特有の経年の傷み(スレや巻皺など)は当然ありますが、特に鑑賞を妨げる大きな傷みは無く大変良好な状態と言えます。
【寸法】
軸寸約185.5x56 cm
画面寸 約85.5x40.5cm
【美術年鑑参考価格】
美術年鑑には,8,000万円と掲載されていますが,幅45cmを基準として算出されています。本作は,その90%程度のサイズとなっています。ご参考までに・・・。
※出品物についての箱の有無、及び額縁に関しましてはあくまでも作品の付帯品とお考えください。箱のコンディションや額のコンディション等によるクレームは一切お受け出来ませんので予めご了承ください。
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【作者について】
狩野 元信(かのう もとのぶ、 文明8年8月9日(1476年8月28日)? - 永禄2年10月6日(1559年11月5日)[1])は、室町時代の絵師。狩野派の祖・狩野正信の子(長男または次男とされる)で、狩野派2代目。京都出身。幼名は四郎二郎[2]、大炊助、越前守、さらに法眼に叙せられ、後世「古法眼」(こほうげん)と通称された。弟は雅楽助。
父・正信の画風を継承するとともに、漢画の画法を整理(後述)しつつ大和絵の技法を取り入れ(土佐光信の娘千代を妻にしたとも伝えられる[3])、狩野派の画風の大成し、近世における狩野派繁栄の基礎を築いた。
狩野元信は、室町時代より長きにわたり画壇の中心を担ってきた狩野派の二代目です。狩野派とは、血縁関係でつながった「狩野家」を核とする絵師の専門家集団です。元信は極めて卓越した画技を持ち、その作品は歴代の狩野派絵師の中で最も高く評価されていました。また、工房の主宰者としても優れた能力を発揮した元信は、孫・永徳(えいとく・1543~90)や永徳の孫・探幽(たんゆう・1602~74)などへとつながる、それ以後の狩野派の礎を築きました。幕府の御用絵師となった狩野派は、日本絵画史上最大の画派へと成長していきますが、その繁栄は元信なくしては語れません。
狩野派の台頭を支えた大きな要因のひとつに、「画体(がたい)」の確立があります。従来の漢画系の絵師たちは、中国絵画の名家(めいか)による手本に倣った「筆様(ひつよう)」を巧みに使い分け、注文に応えましたが、元信はそれらの「筆様」を整理・発展させ、真・行・草(しん・ぎょう・そう)の三種の「画体」を生み出します。そして、その「型」を弟子たちに学ばせることで、集団的な作画活動を可能にしました。襖や風などの制作時には弟子たちが元信の手足となって動き、様式として揺るぎ無い、質の高い大画面作品を完成させました。
また、父・正信は中国絵画を規範とする漢画系の絵師でしたが、元信はさらにレパートリーを広げ、日本の伝統的なやまと絵の分野にも乗り出します。濃彩の絵巻や、金風の伝統を引き継ぐ金碧画(きんぺきが)など、形状・技法の導入に加えて、風俗画や歌仙絵など、やまと絵の画題にも積極的に挑戦しました。とくに、それまでやまと絵系の絵師や町絵師が主導していた扇絵制作には熱心に取り組んでいます。
和漢の両分野で力を発揮し、襖や風などの大画面から絵巻や扇絵といった小画面にいたるまで、多様な注文に素早く対応することで、元信工房は多くのパトロンを獲得していきました。狩野派は元信の時代に組織として大きく飛躍したといえます。
略歴
10才の時、将軍足利義尚の近侍となり、足利義澄にも仕えたとされる[2]。
製作年が明らかな最初の絵師としての作例は、永正4年(1507年)細川澄元の出陣影の制作である。記録上の初見は永正10年(1513年)で、細川高国の命で『鞍馬寺縁起絵』を制作している。現存する大徳寺大仙院の障壁画は、同院創建時の永正10年(1513年)の制作とするのが通説であったが、大仙院方丈の改築が行われた天文4年(1535年)の作とする見方もある。元信は60歳代にあたる天文年間に以下のような大きな仕事に携わっている。まず、天文8年(1539年)から約15年間、石山本願寺の障壁画制作に携わった。この間、天文12年(1543年)には内裏小御所、同じ頃には妙心寺霊雲院の障壁画を描き、天文14年(1545年)頃に法眼(僧の位の一つ)を与えられている。墓所は京都市妙覚寺と墨田区本法寺。
こうした権力者の需要に応える一方で、町衆には絵付けした扇を積極的に販売し、当時の扇座の中心人物であった。『古画備考』所載の幕府への起請文には、扇絵制作の権利を持たないものが勝手に扇を作るのは違反なので、即刻その停止を命じて欲しいと記されており、元信の画工というより有能な事業主としての姿と、狩野派の民間工房的性格を垣間見られる。元信は、幕府、朝廷、石山本願寺、有力町衆など、時の有力者より庇護を受けつつ、戦国の乱世を生き抜いた絵師である。
狩野派様式の確立
元信の作品は、漢画(大和絵に対して中国風の画を指す)系の水墨画法を基礎としつつ、大和絵系の土佐派の様式を取り入れ、書院造建築の装飾にふさわしい日本的な障壁画様式を確立した点に特色がある。新たな顧客からの注文の増加と多様化に対応するため、元信は新たな画風や制作体制の必要にせまられた。当時の絵師は牧谿様、夏珪様など宋や元時代の中国画人の作風で描くことを求められたが、日本にある彼らの作品は小品が多く障壁画や屏風絵のような大画面の構成に不向きであった。そこで元信は、彼らの筆様の整理・統合し、書体になぞらえた「真」「行」「草」の3種類の画体を確立、これを弟子たちに学ばせて、幅広い注文主の要求に応えた。多種多様な絵を大量制作できるこの方法は、後の狩野派の制作体制を決定づける事になる。なお、真体は馬遠と夏珪、行体は牧谿、草体は玉澗の画風を元としている。そのため現在でも大量の「元信印」を持つ作品が残っているが、それが却って元信自身の作品を見分けるのを困難にしている面もある。また、大和絵系絵師の専門領域であった絵巻物や金碧画を積極的に取り込み、上記の漢画の筆法や堅固な画面構成を取り入れ、華麗さと力強さが共存した和漢融合の様式を生み出した。後の狩野永納が著した『本朝画史』には「狩野家は是、漢にして和を兼ぬる者なり」という有名な一節があるが、和漢兼帯の姿勢は元信の時代から培われた狩野派の特色である。
職業絵師としてさまざまなジャンルの作品を残しており、『飯尾宗祇像』(ボストン美術館)のような肖像画、兵庫・賀茂神社の『神馬図額』(絵馬)のような作品も現存している。
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