旧家より 長曽祢興里入道乕徹 大名登録


長曽祢虎徹」は、江戸時代中期の江戸において、2代に亘って日本刀を鍛造した刀工です。この2刀工が鍛刀した時期は、日本刀の歴史区分では「新刀期」(しんとうき)に相当します。新刀期の中でも長曽根虎徹が鍛えた日本刀は、大変な人気を集めました。これは、時代背景と関係があります。
新刀期の初期は、「徳川将軍家」による幕藩体制の確立によって、日本刀を実戦で使用する機会が激減した時期です。これを受けて、腰に帯びた大小2振の日本刀は、武士の権威を象徴する、装飾としての側面を強めるようになったため、反りが少なく華美な様式が主流となりました。
しかし、使用頻度が大幅に減ったとは言え、江戸時代初期は、戦国時代の遺風(いふう:後世に残る古くからの風習や習慣)が強く残っていた時代。武士達は、日本刀において「武士の魂」としての様式美を有し、かつ抜群の切れ味を発揮する作例を求めました。この需要に最大限応えたのが、江戸で作刀に携わった長曽祢虎徹だったのです。人気ぶりは幕末期まで続き、「新選組」局長として知られる「近藤勇」(こんどういさみ)も、長曽祢虎徹の日本刀を愛用しています。
初代長曽祢虎徹は、当初の刀工名を「興里」(おきさと)と名乗っていました。「古今鍛冶備考」など、江戸時代に刊行された刀剣書の記述によれば、その出自は近江国(現在の滋賀県)とする説が一般的です。しかし、「本国越前住人」と銘を切った日本刀も現存しており、越前国(現在の福井県北東部)を生国とする説もあります。この他にも、近江国で生まれて越前国で育った可能性を指摘する声もあり、詳細は分かっていません。
長曽祢一族は元々甲冑師でしたが、初代長曽祢虎徹は、刀工への転身を決意して出府(しゅっぷ:地方から江戸に出ること)しました。当時の年齢は50歳。それから23年間に亘って、日本刀を鍛造しています。元来甲冑師であっただけあって、作刀する日本刀は、質実剛健で頑丈そのもの。無類の切れ味を誇っていました。
「石灯篭切虎徹」(いしどうろうぎりこてつ)と号する打刀(うちがたな)は、松の大枝を両断するのに用いた際、すぐ傍に置いてあった石灯篭にまで、勢い余って切り込んだという逸話から名付けられた1振です。2代長曽祢虎徹は、名を「興正」(おきまさ)、通称「庄兵衛」(しょうべえ)と呼ばれていました。初代の弟子であり、養子に入って2代目を継いでいます。
初代・2代共に、江戸時代の刀剣格付書である「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)において最上大業物(さいじょうおおわざもの)に選ばれており、2代目もまた、切れ味に優れた作例を鍛刀する実力者だったことが分かります。
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(2025年 7月 13日 11時 50分 追加)
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