広瀬栄一コレクション拓本2-323-1●昭和17年 崇道神社蔵 小野毛人墓誌拓本 2枚 保護新聞紙付 240909 古文書


崇道神社(すどうじんじゃ)は、京都市左京区上高野にある神社である。社格は旧村社
社伝によれば、785年延暦4年)9月、長岡京造宮使であった藤原種継が暗殺された事件に連座したとされる早良親王(崇道天皇)の霊を慰めるため貞観年間(859年877年)に創建されたという。1915年大正4年)に近隣にあった式内社とされる出雲高野神社・伊多太神社・小野神社の3社が合祀された。
奈良時代墓誌で、銅製・鍍金。寸法は長さ58.9センチメートル、幅5.9センチメートル。江戸時代の慶長18年(1613年)に崇道神社背後の山中で発見され、土葬石室埋納されていたという。延宝元年(1673年)に銅製墓誌函が作られ、宝永2年(1705年)には発見に関する文書が記されている。元禄10年(1697年)に再び埋納され、1913年(大正2年)に墓の調査に伴い再び発掘された。墓誌銘は次の通り。
(表)飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
(裏)小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬
被葬者の小野毛人は、『続日本紀』和銅7年(714年)4月条に拠れば遣隋使である小野妹子の子で、天武朝期には太政官兼刑部大卿の地位にあったという。墓所は山城国愛宕郡小野郷にあたり、小野氏の故地に比定される。毛人の墓は天武天皇6年(677年)に作られているが、墓誌が作製されたのは、銘文中の官職や姓などの用語から見てやや時代が下り、毛人の子の小野毛野による追納で、持統朝期であると考えられている。墓誌は京都国立博物館に寄託されている[1]。出典:ウィキペディア
広瀬栄一氏は、石岡市高浜にある酒造会社の元社長で考古学文学に造詣が深く文人との交流も数多くあります。
台東区根岸にある子規庵の戦後の再建をした寒川鼠骨との交流や再建を経済的に援助した人です。

拓本は広瀬氏が収集したものしかないと思われ大変貴重な史料です。
拓本が取れるという広瀬氏の人脈に敬服致します。
拓本もまた文化財だと思います。
保護新聞紙は、昭和18年1月21日付 東京日日改題毎日新聞です。
戦時色の濃い記事ばかりです。
額に入れて鑑賞するのも良いと思います。

多くの方にご覧になって戴き貴重な資料がご研究のお役に立てれば大変嬉しいです。
左側のサイズは32.1×77㎝です。
写真にあるスケールは全長17㎝です。
状態は経年によるシミヤケや破れがあります。
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