120 x 51.5 センチ (全体) 29.5 x 43 センチ (本紙)
軸先:木
※全体サイズは表具の端から端のサイズです。軸先部分は含みません。
※商品・軸先の状態につきまして下記【重要なおしらせ】項目をご一読お願いいたします。 紙本(印刷ではなく、描かれている作品です。)
【豊蔵坊信海】1626-1688 江戸時代の狂歌作者。名は孝雄,字は子寛。覚華堂,玉雲翁,牛庵,鳩嶺などの号がある。山城国(京都府)石清水八幡宮の社寺豊蔵坊の社僧。石清水八幡本坊の松花堂昭乗に書を,小堀遠州(政一)に雅事を,松永貞徳に俳諧を学んだ。狂歌は正親町実豊,中院通茂らの貴紳との応酬もあり,『古今夷曲集』に24首が入集するほか,この時期の諸書に散見し,公刊歌集に『狂歌鳩杖集』2冊がある。社用のためか,江戸に往来することしきりで,東海道中の作も多く,連作「富士狂詠」41首なども知られている。初期教養人の余技的狂歌から職業的狂歌への橋渡し的存在で,門下には江戸の旗本黒田月洞軒や大坂歌壇の大立者油煙斎貞柳がいる。
【松平忠国】1597-1659 江戸時代前期の大名。丹波国篠山藩主、播磨国明石藩の初代藩主。藤井松平家嫡流4代当主。官位は従五位下・山城守。松平信吉の長男として誕生した。元和6年(1620年)に信吉の跡を継いで丹波篠山5万石の藩主となる。信吉の代から建設中であった城下町を完成させた。藩の財政には厳格であり、元和7年(1621年)に不作であった際には柿の木も年貢の対象としたため、農民から越訴されている。慶安2年(1649年)に播磨明石7万石に加増転封された。こちらでは、新田開発や掘割の開削などに当たった。万治2年(1659年)、死去。享年63。茶道・和歌・俳諧・文学を嗜み、沢庵宗彭との交流もあった。明石が『源氏物語』『平家物語』で舞台となっていたことから、光源氏や明石入道の碑を造り、自作の和歌をそれに刻ませている。
★最後の画像は本品と付属資料の花押との比較画像となります。
※付属品につきまして 商品は画像に写っている物が全てになります。 木箱、タトウ箱などの有無につきましても画像をご覧いただき御判断お願いいたします。
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